GRIT やり抜く力(アンジェラ・ダックワース)

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この本を読みたいと思った理由

  • 人生で挑戦していることをやり抜きたいから

この本から得たいもの

  • やり抜く力
  • もし実践できるTipsやコツがあったら、仕事や生活に取り入れたい

Highlights

要するに、どんな分野であれ、大きな成功を収めた人たちには断固たる強い決意があり、それがふたつの形となって表れていた。第一に、このような模範となる人たちは、並外れて粘り強く、努力家だった。第二に、自分がなにを求めているのかをよく理解していた。決意だけでなく、方向性も定まっていたということだ。このように、みごとに結果を出した人たちの特徴は、「情熱」と「粘り強さ」をあわせ持っていることだった。つまり、「グリット」(やり抜く力)が強かったのだ。

誰かが新聞に載るほどの偉業を成し遂げると、世間はたちまちその人を「並外れた才能の持ち主」としてあがめてしまう。しかし才能を過大評価すると、ほかのすべてを過小評価してしまうことになる。

一流の人は「当たり前のこと」ばかりしている
数年前、私は競泳の選手を対象とした研究論文を読んだ。題して「一流の人たちが行っている当たり前のこと」。その題名にこそ、この研究の重要な結論が凝縮されている。すなわち、人間のどんなにとてつもない偉業も、実際は小さなことをたくさん積み重ねた結果であり、その一つひとつは、ある意味、「当たり前のこと」ばかりだということ。

この研究を行ったハミルトン・カレッジの社会学者、ダニエル・F・チャンブリスは、論文でこう述べている。

「最高のパフォーマンスは、無数の小さなスキルや行動を積み重ねた結果として生み出される。それは本人が意識的に習得する数々のスキルや、試行錯誤するなかで見出した方法などが、周到な訓練によって叩き込まれ、習慣となり、やがて一体化したものなのだ。やっていることの一つひとつには、特別なことや超人的なところはなにもないが、それらを継続的に正しく積み重ねていくことで生じる相乗効果によって、卓越したレベルに到達できる」しかし、人は「当たり前のこと」では納得しない。

私たちは完璧な王者に憧れる。当たり前のものよりも、驚異的なものが好きなのだ。

でもなぜだろう?私たちはいったいなぜ、スピッツの超人技は努力のたまものではないと思いたがるのだろうか?ニーチェはこう言っている。

「我々の虚栄心や利己心によって、天才崇拝にはますます拍車がかかる。天才というのは神がかった存在だと思えば、それにくらべて引け目を感じる必要がないからだ。「あの人は超人的だ」というのは、「張り合ってもしかたない」という意味なのだ」言い換えれば、「天賦の才を持つ人」を神格化してしまったほうがラクなのだ。そうすれば、やすやすと現状に甘んじていられる。私自身、教師生活の初めのころを振り返ってみると、まさにそうだった。「才能」のある生徒しかよい成績は取れないと思い込み、そのように指導したせいで、生徒たちも、私も、「努力」の大切さを深く考えることがなかった。

成熟した「やり抜く力」の鉄人たちに共通する4つの特徴が見えてくる。
ものことを途中でやめるときの4つの理由とは正反対で、年月とともに、つぎの1から4の要素が順番に強くなっていく。

1.(興味)自分のやっていることを心から楽しんでこそ「情熱」が生まれる。私がインタピューをした人びとはいずれも、自分の仕事のなかで、あまり楽しいとは思えない部分をはっきりと認識しており、多くの人はちっとも楽しいと思えないことも、少なからず我慢していた。とはいえ全体的には、目標に向かって努力することに喜びや意義を感じていた。だからこそ彼らは、尽きせぬ興味と子どものような好奇心をもって「この仕事が大好きだ」と言う。

2.(練習)「粘り強さ」のひとつの表れは、「きのうよりも上手になるように」と、日々の努力を盛らないことだ。だからこそ、ひとつの分野に深く興味を持ったら、わき目もふらずころるとで、自分のスキルを上目る目標を使定してはそれをクリアする「練習」に励む必要がある。自分の名をはっきりと認識し、それを克服するための努力を日々繰り返し、何年も続けなければならない。
また、「やり抜く力」が強いということは、慢心しないことでもある。分野を問わず、どれほど道を究めていても、「やり抜く力」の鉄人たちは、まるで決まり文句のように「なにが何でも、もっとうまくなりたい!」と口にする。

3.(目的)自分の仕事は重要だと確信してこそ、「情熱」が実を結ぶ。目的意識を感じないものに、興味を一生持ち続けるのは難しい。だからこそ、自分の仕事は人的に面白いだけでなく、ほかの人びとのためにも役立つと思えることが絶対に必要だ。
なかには早くから目的意識に目覚める人もいるが、多くの場合は、ひとつのことに興味を持ち続け、何年も鍛練を重ねたのちに、「人の役に立ちたい」という意識が強くなるようだ。「やり抜く力」の鉄人のなかでも、成熱をきわめた人たちは、みな口を揃えて同じことを言った。「私の仕事は重要です。人的にも、世の中にとっても」

4.(希望)希望は困難に立ち向かうための「粘り強さ」だ。本書では、興味、練習、目的のあとに希望を採り上げるが、希望は「やり抜く力」の最終段階だけでなく、あらゆる段階に矢かせない。最初の一歩を踏み出すときからやり逃げるときまで、ときには困難にぶつかり、不安になっても、ひたすら自分の道を歩み続ける姿勢は、はかり知れないほど重要だ。
私たちはときに大小さまざまな推折を経験して、打ちのめされる。打ちのめされたままでは「やり抜く力」も失われてしまうが、立ち上がれば、「やり抜く力」を発握することができる。

スポーツ心理学者のジャン・コティは、この最初の段階でのびのびと、遊びをとおして興味を持ち、さらに興味を深めておかないと、将来、悲惨な結果を招く恐れがあることを突きとめた。いっぽう、競泳のローディ・ゲインズのように子どものころからさまざまなスポーツを試したのちにひとつの競技に的を絞ったプロのアスリートたちは、全体的に長期間にわたって成績がよいことが、コティの研究によって明らかになった。早い時期にさまざまなスポーツに触れることで、自分がどのスポーツに向いているかがわかりやすくなるのだ。

また、さまざまなスポーツを試すことは、クロストレーニング(専門の競技の技能向上のために別の競技を練習すること〕のよい機会となり、筋肉を鍛え、スキルを磨くことができる。それがのちに自分の専門分野で集中トレーニングを行うときに、思いがけず役に立つ。

この段階を省いて、いきなり専門分野でみっちりトレーニングを受けた選手たちは、経験の浅い選手たちと競争した場合、最初のうちは明らかに有利だ。しかしコティの研究では、そのような選手たちは負傷したり、燃え尽き症候群に陥ったりする確率が高いことがわかっている。

エキスパートたちは新たなストレッチ目標を設定し、弱点の克服に努める。小さな弱点の克服をこつこつと積み重ねていくことが、驚異的な熟練の境地に至る道なのだ。

「意図的な練習」の基本的な要件は、どれも特別なものではない。 

  • 明確に定義されたストレッチ目標
  • 完全な集中と努力
  • すみやかで有益なフィードバック
  • たゆまぬ反省と改良

私自身の研究も含め、多くの研究によって明らかになっているとおり、毎日同じ時間に同じ場所で練習するのを習慣にすれば、重たいを上げなくても、しぜんと練習に取りかかることができる。

Parenting(子育て、親業)という言葉はラテン語に由来し、「引き出す」という意味をもっている。子どもや生徒の興味をうまく引き出して、自分から進んで練習に励み、目的に向かって希望を失わずに進んでいくように導くためには、どうすればよいのか。そのためにアドバイスを求めるのは、まさに親心と言えるだろう。

子どもたちが大変なこと(チャレンジ)にやる気をもって取り組むのは、課外活動以外には見当たらない。

どうやらラットも人間も含めて動物は、体験をとおして「努力と報酬の関連性」を学ばない限り、放っておくと怠けてしまうようにできているらしい。動物は進化の過程において、必死な努力をしなくてすむときは、なるべく手を抜くようになったのだ。

おとなも子どもも「やり抜く力」が身につく4つのルール
わが家には「ハードなことに挑戦する」というルールがあり、3つの条件がある。

1.家族全員(パパもママも)、ひとつはハードなことに挑戦しなければならない。
「ハードなこと」というのは、日常的に「意図的な練習」を要することだ。私は「心理学の研究はもちろん、ヨガにもがんばって取り組む」と家族に宣言した。夫は「不動産開発業でますます実績を上げる。ランニングもがんばる」と宜言した。長女のアマンダは「ピアノの練習」を選んだ(アマンダはバレエを何年も続けたが、とうとうやめたのだ。ルーシーもバレエをやめた)。

2. やめてもよい。
ただしやめるには条件があり、シーズンが終わるまで、たとえば授業料をすでに支払った期間が終わるなど、区切りのよい時期がくるまではやめてはならない。始めたことは最後までやり通すべきであり、最低でもある程度の期間は、一生懸命に取り組む必要がある。

言い換えれば、きょう先生に怒鳴られたから、競争で負けたから、明日は朝練があって寝坊できないのがつらいから、などという理由でやめてはならない。嫌なことがあっても、すぐにやめるのは許されない。

3.「ハードなこと」は自分で選ぶ。
選ぶのを他人任せにしない。自分が少しも興味を持っていないのに、ハードなことに取り組んでも意味がないからだ。わが家では娘たちにバレエを習わせたとき、世の中にはほかにもさまざまな習いごとがあることを説明し、よく話し合ったうえで決めた。

じつは、次女のルーシーの場合、「ハードなこと」がこれまでに5回以上も変わっている。いつも最初の意気込みはすごいのだが、そのうち「やっぱりこれじゃない」と思うことの繰り返しで、バレエ、体操、陸上、手芸、ピアノを習ったあと、ついにヴィオラに落ち着いた。ヴィオラを始めて3年になるが、興味はなくなるどころか、ますます大きくなるいっぽうだ。昨年は、学校のオーケストラと市のオーケストラに入部した。先日、「そろそろハードなことをほかの目標に変えたいんじゃない?」と訊いたら、ルーシーはあきれ顔で私を見つめ返した。

アマンダは来年、ルーシーは再来年、高校生になる。高校生になった時点で、わが家のルールには4つめの条件が加わる。

4. 新しいことでも、いまやっていること(ピアノやヴィオラ)でもかまわないが、最低でもひとつのことを2年間は続けなければならない。

横暴だろうか?私はそうは思わない。このことについて、最近アマンダとルーシーが言ったことが、親の機嫌を取るためのウソやごますりではないならば、ふたりとも不満には思っていないはずだ。

娘たちは「やり抜く力」の強いおとなになりたいと思っている。そしてほかのスキルと同じように、「やり抜く力」を身につけるには練習が必要なことも知っている。そして、そんな機会が与えられた自分たちがいかに幸運であるかも、よくわかっている。

子どもが自分の道を自分で選ぶ能力を損なわずに「やり抜く力」を育みたいと願う親御さんたちには、ぜひ「ハードなことに挑戦する」ルールをお勧めしたい。

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